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2011年 10月 14日
メモ
「街」「プレゼント」を観て 宮崎駿

アニメーションを職業としている者の立場からとか、不惑に達した大人の見地から、「街」「プレゼント」の二作品を論評したくないと思う。これ等の作品の創り手達と同じ年頃の時、自分は彼等のような力や根気を持っていなかった。とにかくフィルムを作るその時だけでぼくはひたすら関心してしまうのだ。その一方、これ等の作品は他人事ではない切実さをぼくにつきつける。この二作品の源になっている憧れや想いは、確実に創り手と同じ年頃の自分が持っていたものだし、今でもその性向を払拭しきれたわけではないからだ。
ある時期………少年から青年へ移行する不安定な一時期に、ある種の傾向を持った青年達は「少女」の話に聖なる象徴を見出す。原因を分析するのは本意ではない。よくも悪くもとにかく、そのような青年達が毎年再生産されている事は確かなのだ。ロリコンも立派な個性だとひらきなおったり、ゴッコ遊びに解消してしまうには、その青年達のかくされた想いは深い。青年達は、自分の中に少女を飼い始める。少女は彼の一部であり、彼の心の投影である。自分を無限に許してくれる異性、しかも母のように子宮にのみこんで自分の力を奪うのではなく、自分がその少女のためなら能動的も力も発揮出来るはずの少女……。理想の女性と言う人もいるが、それはちがう。理想とはより万人のものであって、この場合はあくまでも個人としての自分のために存在する異性なのだ。
自立しようとする女性達は、この少女達を憎む。自分を型にはめこもうとする男達の一方的暴力と感ずる。本当の私達はそうではない、私達だって地面をはいずり、のたうって生きているんだと叫ぶ。ブリッコなる語は、男共のおしつけへの怒りと、しかも男の女性観を無視出来ない自虐の両者を含んでいるようだ。「街」「プレゼント」の二作品に登場する少女は、創り手の心の中にある少女であり、絵は少しちがても同一人物であることはまちがいない。人間らしさを喪った街や戦場にかりたてられる親をなくした人々の群の中で、少女のみは、やさしさや、美しいものへの共感を喪わずにいる、イミテーションではない本当の心のふれあいを求めている。一見、文明批判ともとれる構成である。しかし、あえて書くなら創り手の本意はそこにはないのではなかろうか。モラトリアムに終止符を打ち、これから出掛けて行かなけれならない下界の、得体のしれない無記名さ、巨大さ、粗暴さ、とりかえしのつかなさの投影として、あの街はあるのではなかろうか。不安と憧れの心象としてあの街はあり、当然そこは無機質的で、青年がまだそこを知らない、体験していないという意味で線だけの白紙の世界なのだ。対して少女は、創り手の青年の自分自身への愛着であり、置いていかねばならない子供時代の自分……大人になるにはすてなければならない屁護や知らずにいる権利や、生活につきまとう自由だった自分への郷愁の投影なのではないか。
少女は、自分の外に生きているのではなく、自分n中に飼っている自分自身なのだ。
ぼくは、冒頭にも書いたとおり、それがいいの悪いの論ずる気も資格も持たない同類の人間である。おそらく今も、現実生きる女性達を目の前にしながら、彼女達の本質とかかわりなく、自分の投影を見つけようとしているだけかもしれない……とても分析や批評の対象として「街」と「プレゼント」をきりすてたくないのである。
自分の中に厳然とある憧れや想いを、分析して否定して抑えつけた処で何になろう。しかし、作品を創る作業はそれとは別なはずなのだ。ぼくはかってに夢想する。「街」の少女が、自分の仔犬をとりもどすために、あのカニロボットを追いたたかい始めたら、映画はどうなっていくんだろう。パンを投げすてるだけでなく、あのパンをカニロボットの中にいる仔犬に食べさせたいと行動し始めたら……「プレゼント」の少女が、自分に絵本を届けた顔のない人を、あの行列からとりもどそうとし始めたら……。大作になってしまうかもしれない。フィルムにまとまらないかもしれない。純な少女は純なままでいられなくなるかもしれない。でも、それでもいいではないか。
ぼく自身につきつけられた課題という意味もふくめて、それが作ることと、創ることの違いなのではなかろうかと思うのだ。

1983年4月3日(早稲田大学アニメーション同好会会誌)

by hatamasanorihata | 2011-10-14 21:14


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